日本と北欧の教育

学ぶのが楽しい!

ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイスランドなど北欧では大学まで行くのに授業料の9割を国が負担。日本では3割。経済的にゆとりのない過程では大学進学も出来ないことになる。奨学金やアルバイトなどはあるが、そこまでするなら行かなくても…と考えるのも無理のない話だ。

実際日本の萩和田文部科学大臣の発言「身の丈にあった学びを」と言うくらい、日本には教育格差が浸透している。文部科学省にはスポーツ庁、文化庁、科学技術局、教育局などがあり国民の教養、知力、体力などの推進・向上を担っている。その長がこのような発言をすること自体不思議というか怖い。

教育に関するお金を誰が負担するのか。そう言うと日本では当然のように家庭という声が多数を占めるが、それが可能な家庭と厳しい家庭とに分かれ、格差が生まれる。将来国の発展を担い、そして税金を納めていく若者に対して国は高い水準の知識を求めている。であればその学力を一定の水準までもっていく責任というか役割は国が持つことが自然なのではないか。

北欧では高校卒業まで無償、大学卒業まで1割の負担、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドでは大学まで無償。しかし日本では大学など高い水準の教育や専門知識を求めれば求めるほど家庭への負担は増すばかり。

その分北欧の税金は高いが、それでも生活必需品に対しては軽減税率も導入されている。医療や介護などの社会保障、児童手当や育児休暇などセーフティーネットがものすごく充実している。

『国を滅ぼすにはその国の言語を失くすのが手っ取り早い。』と言われるようにここでいう言語とは教育という解釈で問題ないと思うが、教育水準の低い国は勝手に衰退するというものだろう。北欧では国の将来を見ているからこそ国民の教育水準を高めることが国に戦略もなっている。

私は沖縄生まれだが、琉球国を沖縄県にする際(琉球処分)に今まで使っていた方言(琉球語)の使用が禁止された。標準語で話せというのだ。標準語普及運動という呼び名であったが、やっていることは琉球国を滅ぼすことだ。学校でも強制的に実施され、ついつい方言が出てしまおうなら方言札といわれるかまぼこ板のようなものを首から下げることになった。外すためには他に方言を使っている人を見つけなければならないという、友達全員が監視役であった。そんなぎくしゃくした雰囲気の中おしゃべりしなくてはならないなんて何が教育なのか分からない。その方言札の制度はフランスから取り入れたものだというのだから、そんなものを取り入れるなら今の北欧を見習ってはどうだろうか。

選ばれた人、一握りの人、その他から抜きん出ている人に対して日本ではエリートという言葉が使われている。それは憧憬の意味でも使われたりするが、大部分は皮肉や嫉妬、または自分とはかけ離れたものという意味合いも含んでいるだろうと思う。そもそも全員がエリートであればエリートという言葉が生まれることもなく、そうすれば使われることもない。本来は全員エリートを目指すべきで、そうすることは国の責任であるともいえる。

一方で、そういう気力も持たない若者、学ぶということに対しての意欲を持たない人が少なくないことも視野に入れなくてはならない。つまり勉強することに対しての意味を見出せない、または意味がないと感じている人も多いのではないだろうか。経済的な問題がなくて、学ぼうと思えば学べる環境にいたとしてもだ。「経済的なゆとりが無く学べない」ということよりもある意味でそちらの方が重症だといえるのではないか。

なぜそうなってしまったのか。

二足歩行を諦めた赤ちゃんがいないように、学ぶこと、出来ないことが出来るようになることを求めるのは人が本来持っている能力であるといっていい。歩こうとするときに「危ないからやめなさい」という親はいないだろう。応援する、何か起きても大丈夫なように見守る、そして達成したら大喜びする。

赤ちゃんが自主的にしようと思ったこと(ここでは歩くこと)に対してのサポートと応援がある。「隣の子はもう歩いているんだからあなたもそろそろ歩きなさい」なんて叱っている親はまずいない。自分の子を見つめ、そして赤ちゃん自身も自分を見ている。あいつに負けないように1歳までに歩いてやる、なんて思っている赤ちゃんがいたら不気味だ。つまりそこには他者との競争は存在していない、ということだ。

競争をすることで、どうしても敗者という立場の人が生まれる。それが当たり前の社会にいる私たちにとっては普通のこと。負けたくないから勝つために頑張ろうとする。勝ったら気持ちいい。負けたら悔しい。勝ったら優越感、負けたら屈辱感。勝ち組は優秀、負け組は劣者。競争社会の中にいる私たちにとっても、このパラダイムに違和感を感じている人は少なくないだろう。うつ病や不安障害、様々な精神疾患も競争社会が生んだものだと思う。

スウェーデンでは1991年~1994年にかけて競争原理を教育現場に取り入れた。競争することで意欲の向上、学力アップを狙ってのことだ。するとどうなったか。OECD(経済協力開発機構)の学力到達度調査によれば、競争原理を導入してからの学力はみるみる低下していったという結果が出た。それに気づいたスウェーデンは競争原理を廃止、失敗から学んだのだ。学級編成基準・テスト導入の廃止を1995年に、学校教育と保育の一元化を1998年に行っている。この切り替えの早さはスウェーデンがどれだけ教育を大切にしているのか、その姿勢がうかがえる。

競争原理の怖いところ、それは実施者にとってラクであるということも一つの要素である。テストを配り採点する。その点数で成績を出す。80点以上は優秀で30点以下は問題ありとなる。そこに迷いは一切ないだろう。また、この学年のこの時期には割り算を、次の学期では分数を、といったように一斉に始めることが出来る。そこには生徒個人個人の達成度や理解度といったものは含まれず、強制的に次の課題を取り入れることになる。

以前テレビで算数の授業が取り上げられていた。そこには『問:家から待ち合わせ場所までは15分かかります。9時に待ち合わせした場合、何時に家を出ればいいでしょうか。』というような問題だった。皆さんはなんと答えるだろうか。9時から15分を引くから答えは8時45分になるだろうか。

その問題に対して生徒の答えは8時40分だった。もちろん先生は×をつけている。問題の下には式を書くための空白があり、そこにはこう書かれていた。

「45分に家を出たらぎりぎりなので5分前に行った方がいい」

待ち合わせをした相手を思いやる気持ちとして大正解といえる。その子は×をもらってどんな気持ちだっただろう。算数が嫌いになっただろうか。先生を嫌いになっただろうか。それとも正解をもらうには皆と同じ正解を出さないといけないことを学んだだろうか。どちらにしてもやるせない気持ちが残る。

その後の対応はとても大切で、競争原理にはフィードバックがない。間違いか正解かを判断する、そこに成績をつけるだけなのだから。

先ほどの例でいえば、先生はこの回答をもとに授業を膨らませてもいいと思う。ぎりぎりに家を出たら慌ててしまって転ぶかもしれない。忘れ物をするかもしれない。最悪の場合車にひかれてしまうかも。先に友達が待っていてくれたら嬉しいかもしれない。信頼感が生まれるかも。逆に遅刻したら、されたらどんな気持ちになるだろうか。生徒みんなで話し合ってみたらいい。

「小学校までの算数はめちゃくちゃ楽しくて成績も良かったけど、中学から嫌いになった」「何が分からないのかが分からない」等というセリフを言った、もしくは聞いたことのある人は多いのではないだろうか。そうなってくると学ぶ意欲を維持することの方が至難の業であることはいうまでもない。それだけでもデメリットだが、さらに「自分は勉強出来ない、理解力がない」「みんな出来ているのに」などの自己否定を生んでしまうのだから目も当てられない。じゃあ勝てばいいのでは、となるのだがそこにもデメリットは存在する。勝つことで自分は出来る、自信につながることは否定しない。先ほども書いたが、そこには他者に対する優越感が存在する。要は自分は他者より優秀であるという差別意識にも似た優越感だ。そもそも優越感や劣等感などは他者がいなければ存在するはずもなく、差別の根源はそこから来ているともいえる。比較対象は他者ではなく、○○が出来るようになった、というような比較対象者は昨日までの自分にあるべきである(5分前の自分、去年までの自分でもいい)。そしてそれを見ていてくれる人がいればなお良い。人は認めれたい生き物である。「いいよ誰からも認めてもらわなくても」という人に限って他者からの承認を強く求めているものだ。承認しながら褒める、または承認しながら叱る。それはまず親が自分の子どもに対して行うこと。そして周囲の子どもにすること。教師が生徒にすること。そしておなじ教師同士ですること、が重要になってくる。

承認欲求については人間の本能であると書いたが、承認する人よりもされたい人の方が圧倒的に数が多い。需要と供給のバランスを見ても認められたい人が多い反面、認めてあげる人の数は少ない。しかし、他者を認めることでの恩恵は自分に返ってくることを知っていれば、喜んで他者を認めることが出来る。「認めてもらいたい人はいませんかー。僕が認めますよー」となる。

問題もある。それは学校現場での実施の難しさである。どうしたって学力重視の日本の教育現場においてテストの実施や成績、点数というのは必須になってくる。しかし点数以外のことを見ることは、生徒一人ひとりをしっかり見ていないと分からないだろう。あの子は元気がいいなぁ、あの子はいつも静かで大人しい感じだな、というのはもちろん、そこから膨らませていけたらいいだろう。元気が良くて周りを盛り上げてくれているのかも、静かにしていても頭の中ではいろんなことを考えているんだな。想先入観ではなく像力を膨らませて、そして実際に会話をして、変化に気づいて、声をかける。時には一対一で話す場面も出てくるだろう。それには時間も気力も必要なのは言うまでもなく、それが十分に出来る環境に教師が携わっているのかといえば疑問でしかない。それは教師自身というよりもそういう教育現場にしている国に改革をしてもらうことが必須ではないか。

そこでひとつ興味深いのが一クラス当たりの生徒の人数を減らし、少人数制にすれば生徒一人ひとりにも目が行き届くのではないかという考え方です。これに対して少人数制が必ずしも良い結果になるとはいえないという調査もあります。それはクラスの人数に限らず良い結果を残している学校が一定数あることが挙げられます。生徒の数を減らせばいいだろうという見方は一見もっともなようではあるが的を得ていないというのが現実だろう。

ではどうするか。

スウェーデンでは生徒の数はそのままで(約30~35名)教師の数を変えるということが有効な策として挙げられています。費用は掛かりますがそれ以上のメリットがあるということでしょう。

①教師が一人で悩まなくてもいいこと(教師が一人で抱え込んでいるケースは多い)、②代理の教師が立ち代わり入る必要がない(現代の教師の病休、精神疾患の割合は高い)、③生徒が担任から色んな見方や意見を聞ける(体育会系な教師もいれば文系な教師もいる)、④最も重要なこととして、生徒のSOSをいち早く察知できる、必要な時に必要な支援、手を差し伸べることが出来るということが挙げられるだろう。

もちろんこれらは国が教育に対してどれだけの関心があるのか、重要視しているのか、そしてそれを行うには国民の負担も増えることは当然起こりうるので、国民の理解と期待をどれだけ得られるのかということが課題となってくるだろう。しかし長い目でみればそれは国の為でもあり、これから日本国内で生きていく国民のためでもあります。優秀な人材を育てる、学べる環境があるということはすべての人にとって税金の負担ということ以上にメリットが圧倒的に大きいということは教育現場にいる人間でなくとも想像することが出来るかと思います。

なぜなら学習ということは若者に限ったものではなく、すべての人にとって大切なものなのでもあるからです。何度でも学べる環境、そしてそれを応援出来る国というのは幸福満足度からしても高いのです。

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