第二夜『カウンセラーは何を見ているか』

著:信田さよ子    発行:医学書院 2014年5月

2日目だいぶ期間が空きました。

なんでかというとー

昨年から誕生した国家資格『公認心理士』を受けるため。勉強でしたねー

やり始めたのが4月、これはヤバいと思い本気で取り組んだのが6月中旬。

一人で勉強しているとまぁまぁつらい!

仲間がいればなぁと思いつつ、スタバで公認心理士のテキストを開いている人に声をかけれなかったことを悔やむ。

沖縄で勉強会ないのかなぁと思い検索するもヒットせず。内地の勉強会は1日3万とかで高すぎ。

独学で受かる!と思いながらの勉強は孤独でもありました。

そのかいあって何とか合格ー

しばらく倦怠感も続き(今も若干)今に至るという。

楽しむのが下手くそなんだよなー。イェーイ!!とかいうキャラもインプットしよう。(目標)

さて著書の紹介にいきましょ。

本書では不思議な感覚と嬉しさを同時に味わいました。

カウンセラーという先入観が剥がれていく感覚と「そうそう」という納得感。

一部抜粋

〈『おつらかったでしょう』『大変でしたね』といった言葉をかける援助者もいるだろう。話を聞きながら涙を流すカウンセラーもいるかもしれない。でも私は、遠のいて、高台にのぼる。〉

という部分。それ分かるー!と若輩ながら感動。

そしてこう続く。

〈なかにはそんな私に対して『冷たい』と感じるクライエントもいるだろう。カウンセラーは共感してくれるものだという先入観からすれば、不満を抱かれる場面もあるだろう。しかし私はそれをしない。なぜなら、その渦に私が巻き込まれることを、クライエントは決して望んでいないと思うからである。〉

もう嬉しくて少しにやけましたね。

私は皆が感動している場面でも一歩引いて見るような質がある。そんな場面で涙を流せる人を羨ましく思ったりもしていた。涙を流せば、仲間の居る輪の中にスッと納まることが出来るような気がした。そして泣けない自分は、輪から少し離れた場所にいるような感じがした。

家庭環境の影響もあるかもしれない。亭主関白の父の家庭では、「男が泣くなんてみっともない」という雰囲気があった。父の泣くところは見たことがないどころか、笑っているところもあまり見たことがない。

アドラー的にいうと、家庭環境が原因で泣けないのではなく、泣けない自分を家庭環境のせいにしているのだ、といったところだろう。でもねー家庭環境は影響あるんじゃないかなと感じもする。正当化。合理化。言い訳。⇒安心・納得の式が出来る。

でも確かに『自分次第ではいつでも変えられる自分』の可能性はアドラーを読んでいるとすごく励みになるし、縛りがないから可能性が広がるね。『○○だから○○になった』みたいな言い訳は通用しませんが。

話を本に戻すと、読み終わってから私が勤めていた精神科を思い出した。一緒には働いていない(法人が同じ)けれど、とあるテレビで見た場面。

ある看護師は献身的に患者さんへ接していた。

その献身ぶりは無償の愛を見ているかのようで、彼女は自分が休みの日も病院に顔を出しては患者さんと交流を持っていた。患者さんのつらい体験話を聴くと涙を流しながら患者さんを抱きしめたりもしていた。

そんな彼女の患者さんに対する接し方は評判で、テレビに取り上げられた。

涙を流しながら共感し、抱きしめる様子を見ては周りも感動が広がっていくようだった。

そして私はというと、感動よりも怖いなーという感情が湧いていた。これが本当の精神科看護ですとなったら、泣けない自分の居場所はないだろう。

本当の共感とは。

ひとたび見て分かるような共感もあるだろうし、それを見せない共感もあるだろう。

どちらが正しいでもなく、それぞれの共感の仕方がある。

または共感しないことで信頼関係を築くといったこともある。

共感は依存を生むこともある。

「この人は私のことを分かってくれる!」となれば信頼関係は築きやすだろうし、相手はどんどん自分をさらけ出していくだろう。それが悪いこともないだろうが、なんだか腑に落ちない。

精神科では役割分担が大切だと常々思っている。大きな家族みたいに。

厳しいことも言う人、とにかく受け止める人、積極的な人、見守る人、中には冷たい人。

社会との接点を持つことに抵抗がある患者さんもいる。病院内では小さな社会がなければいけない。皆が優しい役割であってはいけない。厳しい役はやりたがらないスタッフが多いけれど、厳しかった人の言葉がとても有難かったという経験は自分だけではないはず。

この本はそんな自分を肯定してくれたような気分にさせてくれた。

最後に念のため。 自分も泣いたことはありますよ。

アスパラの天ぷら

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