第七夜『運のいい人の法則』

著:リチャードワイズマン博士     2011年発行 ㈱角川書店

人の絵は苦手だ

「あの人は運がいい」だけで終わらせない。ではなぜ運が良いの?までグイグイ追求している。そして運のいい人の共通点を見つけた。運は自分で作れるもの!そして運の量は生まれつき決まっているわけではないこと。

なんとなくこんな人が運がいいのでは、という曖昧さはなく、たくさんの調査をしている。著者はマジシャンでもあり、マジックを通して人の心理状態に関心を持った。心理学者でもなくマジシャンというところも面白い。

心理作戦や裏を読む、などはマジシャンの得意分野だろう。心理学とは切っても切れない関係だ。

運のいい人は、絶対に理想のパートナーを見つけよう、自分にピッタリな仕事を紹介してくれる人と話をしようと意気込んでパーティや会合に出かけるわけではない。そうではなく穏やかな気持ちでリラックスしているからこそ、自分の周りにあるチャンスに気がつきやすいのだ。自分が見つけたいものを探そうとするのではなく、そこにあるものを見ている。

著書より引用

余裕のある人は素敵だなと思う。余裕のある振りでもいいし。そういう人は今を大切にするんだろう。

人と会っている時も、次の予定でソワソワしてたりメールチェックばかりするのはどうだろう。やっぱり相手を大事にしていると思える対応を心掛けたい。リラックスして、相手の話を興味深く聞く。興味深い振りでもいいし。

少し前に同僚に仕事を教えていたら、「ふんふん」と熱心にメモを取っていた。真剣に聞いてくれていることが嬉しくてこちらも熱心に教えていた。とても意義のある時間だった。そしてある日、同じ内容のことを訊ねてきたので、前に教えましたよと伝えるとまったく記憶にない様子。「あれ、メモ取ってましたよね?」とさらに伝えると、メモをどこに閉まったのか忘れたとのこと。

やっちゃった。

メモを取ることで安心するタイプー!本を買っても読まないような。ダンベル買って持たないような。彼女出来ても大事にしないような。ってそれは違うけど。

なんかがっかりー。と同時に憎めなさもあり。

再び教えます。するとまた「ふんふん」と熱心にメモ。

・・・怪しいなぁ。試しに「今言ったこと覚えてますか」と言ってみた。

すると「えっ!」っと。するとメモを開いて読みはじめる。

「そうですね。じゃあメモ見ないで言ってみてください」(自分もいじわるだなぁ)

これもチロルチョコだったのか

すると言えない。えーなんで?リピートアフターミーするだけなのに?

メモを活用しすぎると覚えるってことを忘れてしまうのか。気を付けよう。

パーティに行っても理想のパートナーを見つけることしか頭になければ、生涯の友人をつくる機会を逃すかもしれない。あなたの周りには偶然のチャンスがたくさんある。見るべきところを見てそこにあるものを見つめればいいだけだ。

著書より引用

見るべきところを見る。簡単なようで奥深い。

居るべきタイミングで居るべき場所にいること。何度か著書にも出てくる言葉。そう簡単には。。。とも思うけれど、その方法もいくつか紹介している。リラックスすることも一つで他にも直観を鍛えること。そして直観を鍛えるためには瞑想が一番良いということ。実際に直観に従ってみて良かったことを記すこと。直観。第六感。虫の知らせ。予感。ピンときた。何かが降りてきた。などなど言い方はたくさん。

皆さんは直観を意識したことはあるだろうか。難しく考えなくても、「なんとなく」で行動したり選んだりしたことも直観になると思う。そしてその「何となく」で行動した結果、不運を回避できたという経験が少なからずあるのでは。しかし良い事だけでもなく、直観で選んで失敗したということもあるだろう。

それは学びの経験ということで、長い目で見ればそれもまた良かったことになる。でもそう言ってしまえば何でも学びであって強制的にそういう方向に話を持って行くことが出来るなぁとも思う。

「これはあなたにとって必要な経験だったんですよ。」なんてセリフはカウンセラーの鉄板セリフのようでもあるし、「だから今のあなたがいるんじゃないですか」って言われたら反撃のしようもない。

「それはそうでしょう。死んでないのだから今私がいるのは当たり前です。でもあんな経験はしたくなかったしそれが学びというのならなぜ別な方法が無かったのでしょうか」

「それはあなたにとってベストな出来事だったんですよ。最もあなたにとって適した方法が訪れているのですよ」

なんだか宗教みたいなやり取りになってきたけれど。哲学と宗教はつながっているのだし、こんなやりとりはどこでも見られそうだ。

不登校や引きこもりについてもいえることだけど、「あの時の経験が糧となって今のあなたがいるんじゃない。だからあの期間は決して無駄じゃないのよ」と説得するかのように、または決まったとばかりに得意げな表情で言っている人がいるとしたら、それは卑怯だと言える。

そのセリフを言っていいのは本人だけで、他者(家族も含め)が押し付けてはいけない。それでも一定数は「そうかもしれない」と納得こそすれ、それでもどこか物足りない気持ちがあるだろう。それは「だからこれからは頑張ろう。」的に割り切らせるような印象を受けるからだ。

こんな二行にも満たないセリフで彼らの過去が丸く収まるはずもなく、あの時があったから今があるなんて言葉ではどうにも物足りない。それならいっそ、「あの時間は確かにムダだった。」と言ってもいいのでは。そしてなぜそうなったのかを見つめ直し、その時間を取り返すかのように前を向けたらいいだろう。自分はひねくれている部分もあるが、真理を見たいと思う気持ちは強くあいまいさが苦手だ。

当事者以外の皆が納得する言葉を並べても意味がない。

「そうだね。確かにあの時間はムダかもしれないしもう戻ってこない。」その後悔を一緒に浸ることが大切だと思う。じゃないとお決まりのセリフで蓋をしてしまい、いつまた開いてしまうか分からない。

ネガティブが持つ力。後悔が持つ意味。色々考えつつ、でもやっぱ運が良いっていいよねー!となるあたり、自分もいいかげんなもんだなと感じる。それもまた憎めない。

なんとかっていうお茶。なんだっけなー

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